「銀竜草」



銀竜草


「おまえの花を見つけたよ。これからその場所に案内しよう」
「お店はだいじょうぶ?」 
「主任にまかせておけばいい。あいつも徐々にひとりだちさせないと」
 火をつけたばかりの煙草をもみ消して澤田は腰をあげた。麗子も、口つかずのティーカップテーブルを置いて彼にならった。ふたりは応接室をでた。
 カウンターに立つ主任に、「外出する。今日は戻らないからあとを頼むぞ」と澤田が告げた。そのうしろで会釈する麗子に店員たちの視線があつまった。

 いったん麗子の住むマンションの一室に立ち寄って軽装に着替えた。そして澤田の車で郊外の山へ向った。
 S山のパーク・ウェイをのぼって山頂駐車場に着いた。彼らは車を降り、展望台を迂回する小径を通って奥の林に入っていった。
 ブナ類の梢が頭上の太陽をさえぎり、さらに密生した下生えが地表に濃い影を落としていた。「ここをのぞいてごらん」と、澤田は土手の窪みを指さした。
 たまった落ち葉の隙間から、ほの白いツクシのようなものが点々と突きだしていた。茎全体に半透明の鱗片をまとい、筒状の花冠はうなだれ気味に、薄紫色の開口部を地面に向けていた。恐々のぞく麗子の眼には、それらが未知の生物のように映った。
 愛人のおどろく表情をたしかめながら、澤田は得意げに言った。「俗にユウレイタケと呼ばれる。けれどキノコじゃない。これでもれっきとした草花だよ」
「白い、まぼろしみたいに白いわ」
「そう、おまえのように白い」
「わたしもまぼろしみたいなの」
「いや、おまえも、この花も、まちがいなくここにある」
 麗子はユウレイタケに向かって手を伸ばした。手前の花弁に届いたと思ったが、指先はふっと宙を掻いた。

 ベッドの中でも白い植物の話はつづいた。
「ギンリョウソウが正しい呼び名だ。葉緑素を持たないから、真っ白な姿をしている」
「じゃあ、どうやって生きていくの」
「根に寄生した菌類の助けを借り、腐った落ち葉などから養分を吸いあげて育つ。そのため、薄ぐらく湿っぽい日陰を選んで生えるんだ」
「やっぱり、わたしみたい」
「どうして」
「この暗い部屋で、あなたの援けをたよりに生きている」
「何を言う。立派に会社役員の肩書を持っているじゃないか」
「従業員の人たちはそんな風に思っていないわ。自分の血を吸うダニだとわたしを憎んでいる。現に今日だって。みんなの刺すような視線を感じたし」
「もしそうなら、全員クビにしてやる」
「いいのよ、本当のことだもの。わたしを憎む方が正しいと思う」
「いや、凡人のひがみだ。奴等にもおまえという女の価値が見えている。それに嫉妬しているんだ」
「ギンリョウソウの花にも終りがあるんでしょ。あなたもきっと、この身体が黒くしなびてしまえば、わたしをつまらない女だと思うはずよ」
「花が済んでも命の営みはつづく。受粉後は雌蕊につながる子房がふくらみ、茎が倒れるとそれがつぶれて種子を撒く」と言って、澤田は麗子の右手を自分の性器にみちびいた。
「けっきょく花は自分の顔を無くすのね。だぶんそれも、わたしの行く末と同じだわ」
「そんなことはない、そんなことはない」と繰り返して、澤田は麗子の肌を撫でまわした。彼の手のひらは、うなじから背中へ、背中から腰へと円を描いてさがっていった。「この美しさが腐るはずはない」
 唇の温かさと、髭剃り跡の感触が、手のひらを追いかけるように背筋をすべり、太腿の付け根にたどりついた。澤田は、麗子の身体を反転させた。「雌蕊の色まで、あの花と同じだ」感慨深げに呟いたあと、襞を押し含むように口づけた。小さくあえいで麗子が背を反らせると、わざと湿った音をたてながら男の舌が動きだした。
 やがて澤田は身を起こし、彼女の花弁が開ききったのをたしかめた。硬い男根を沈めて上体を密着させ、ゆっくり出し入れを繰りかえした。からめた舌がほぐれるたび、彼は同じ文句をつぶやいた。「真っ白だ。怖くなるほど真っ白だ」
 その言葉を、妖しい呪文のように麗子は聴いた。聴けば聴くほど、自分が、希薄な気体に変わっていくような感覚にとらわれた。その感覚が頂点にせまった時、不意に、わたしがわたしでいていいのか、という疑問に彼女の胸は揺さぶられた。
 答がほしくて澤田の胸にすがりついた。熱い息吹を耳たぶに浴びたとたん、子宮がはげしく痙攣した。不意に根元を締め上げられた澤田は、「真っ白だ」と呻きながら精を放った。






 新たな取引先と契約をむすぶため、澤田は一週間の予定で福岡に出張した。
 業務の隙をみて電話を入れるたび、麗子はまた、自分がつまらない女だという愚痴をこぼした。いくらなだめても彼女の鬱はつのっていくようで、澤田もその相手をするのが億劫になってきた。
 血のめぐりが悪いと、人は物事を悪く考えがちになる。ためしに外を歩いてごらん――おざなりな助言を真に受けて、麗子は自分の部屋を出た。そして、どこへという当てもなく、マンション前の歩道をまっすぐ進んだ。
 まもなく、素っ気ない中高層ビルが建ちならぶオフィス街に到った。昼休みを過ぎた頃で、歩道を行き交う人もまばらな時間帯だった。
 交差点の信号が赤に変わり、車の流れが途切れた。ほんの数秒、風景は動きを止めた。そこで麗子は奇妙な無重力感にとらわれた。
 薄曇りの空と、灰色の舗石がつながるあやふやな空間に、建物と車が浮きあがった。ムクドリのフンに汚れた街路樹が、かろうじて視界に奥ゆきと空間的な秩序を与えているが、それもまた騙し絵めいた錯覚効果をともなって、彼女の平衡感覚に揺さぶりをかけてきた。
 とてつもなく遠い街まで来てしまったような気がした。二度と自分の部屋に帰れないかもしれない、そんな不安に襲われて吐きたくなった。一種、恐慌状態の中で、麗子はもと来た道を戻りはじめた。
 舗石の継ぎ目につまずき、よろめいて街灯の支柱にすがった。胸を押さえ、気をもちなおそうとしていたところへ、前から男物らしい靴音が近づいてきた。「だいじょうぶですか。お顔の色が真っ白ですよ」という声に頭を上げた。青い髭剃り跡に囲まれた唇が、視野いっぱいにせまった。 
 反射的に相手をつき飛ばし、麗子は歩道を駆けだした。真っ白だ、真っ白だ、という声が、しつこくその背中を追いかけた。半泣きで「ちがう」とさけぶ彼女を、煤煙に黒ずむハトがよけた。

 麗子はふたたびマンションの自室に引きこもった。ひとりで外に出なければよかったと、彼女は後悔した。一定の気密が保たれた空間で、何かに護られた感覚がなければ生きてゆけない、そんな自分のもろさを今回の異変で思い知らされた。
――こうなったのも澤田さんのせいだ。あのひとが無理をすすめたから、わたしの頭は壊れかけている。この責任をとってもらわなければ。
 枕元の携帯電話に手を伸ばした。長く呼出しの画面がつづいた。その間にいらだちはつのった。澤田がやっと電話口に出た。彼女の憤懣は一度に堰をきった。
「澤田さんのせいよ。あなたの気まぐれな扱いのおかげで、わたしはどこへも行けなくなったじゃない」
「いきなり何を言いだすんだ」
「外を歩いてごらん、って言ったでしょう。でも外は怖い」
「どんな風に怖い?」
「自分が誰だか判らなくなる。このままじゃダメになりそう。戻ってきて」
「いいか、おれは福岡のホテルにいて書類づくりの真最中だ。おまえのヒステリーをなだめている暇は無い。せいぜい一週間のことだから、少しは我慢してくれよ」
「ヒステリーだなんてひどい。わたしの不安が、あなたには分からないの」
「おれにどうしてほしいんだ。仕事も放って、朝から晩までおまえにくっついていれば気がすむのか」
「そうじゃない、もっと普通でいいから」
「普通でいいから?」 
「わたしといっしょに暮らして」
「それ、本気で言ってるのか」
「本気というより、素直な気持ちを言っただけ」
「じゃあ、普通に暮らすってどういうことだ。おれに返事をもとめるより、自分自身にまともな生活能力があるか考えてみろ」
「そんなむずかしい言われ方をしても」
「たとえば、ろくに料理もできないおまえが、疲れて帰ったおれに何を食わせるつもりだ。弁当や宅配ピザなんて、まさか勘弁してくれよ」
「やってみないと分からないわ」
「いいや、やれっこない。おまえは、普通の女とちがうんだ」
 普通の女とちがう、という言葉に麗子はひるんだ。そんな彼女の顔色を見透かしたように、澤田はなお冷徹な文句を繰りだした。「いいか、おまえの取り柄は容姿だ。その白い顔と身体さえあれば、おれの庇護のもとで安穏と暮らしていける。だが、さっきのように世間ずれしたセリフを口ばしるのなら、逆に、おれが与えるすべてを失うと覚悟しておけ。とにかく今は忙しいんだ。この話はすんだことにしよう。じゃあ」
 電話が切れた。呆然と天井を見あげるうち、住みなれたこの部屋の中にさえ身の置き処がない気がしてきた。不意に天井材の白さが恐ろしくなって、麗子は頭から布団を引きかむった。
 これっきり捨てられるのではという不安に駆られ、両腕でみずからの身体を抱いた。そのまま小さく丸まってみても、砂漠の一点の置かれたような虚しさを打ち消すことができない。やはり彼でなくてはだめだ。厚い胸板に護られたい。澤田の愛撫の軌跡をたどることで、彼女はしばし寂寥感から逃れようとした。
 上着をはだけ、自分の胸のふくらみをもみしだくと、うずきが徐々に、首筋から腰の辺りへと降りていった。そのうずきを追いかけて、彼女の右手は両腿の隙間にすべりこんだ。下着ごしに指先で敏感な所を圧すたびに、あのささやきが耳元によみがえった。「真っ白だ。怖くなるほど真っ白だ」
――あの人は、わたしの白い肌だけをもとめているんだろうか。
 心のうちで問いかけながら、じかにそれに触れてみる。小さな花芽ほどに膨らんでいる。下の裂け目をなぞると、熱い潤みにいきあたる。心は傷ついているはずなのに、身体は普段にもまして反応している。そんな自分にあきれながらも、反復する手の動きを休めることはできない。
――抱いてもらえるんならそれでもかまわない。まぼろしでもいいからここに戻って。
 たかまる快感の中で澤田をもとめれば、怖れや疑いは遠ざかり、彼の匂いが鼻先に近づいてくる。記憶の中で嗅ぐ整髪料と汗の香りが、これまで知ることのなかった男のやさしさに感じられた。
――わたしが、わたしでいたいと願うからいけないんだ。余計な考えは捨てて、あのひとがのぞむとおり心も身体も真っ白になろう。名のない透きとおる花になれば、きっといつまでも棄てずにいてくれる。
 澤田がするように、力をこめた左手で乳房をつかんだ。性器を出入りする右手の中指は、男が打ちこむ時と同じ音をたてて、彼女の体内に悦びをもたらした。
――わたしはどこのだれでもない、わたしはわたしの顔をもたない。
 のぼりつめる寸前、逆光の中に立つ影が脳裏にあらわれた。それは、首から上のかたちを持たない人影だった。


 キーボードをたたく手を休め、澤田は椅子の背凭れに身をあずけた。
 めずらしく感情をあらわにした麗子に対し、ついむきになってしまった。さっきの言い方はきつ過ぎたと後悔している。とはいえ、彼女と暮らせるはずもないのは本当で、適当な応えでお茶をにごすよりましだったのではないか。
 じっさい麗子には生活能力のかけらもない。世間との交わりで知る常識、独力で生きるための知恵や技倆といったものが欠落している。だが、その欠落ゆえに、彼はかえって彼女に厭きることがない。無知の泉水を汲めば汲むほど、奥底にかがやくものが見えてくる。これまで幾度もその正体をたしかめようとこころみた。しかし、手を伸ばせばまた増してゆく水かさに、光源への到達をはばまれてきた。
 澤田はスタンドの灯を消した。そして薄闇の中で麗子の裸身を想いうかべた。
 浅くうなだれ、やすらかな表情で、彼女は立ったまま眠っている。しずかな乳白の明るさをまとう全身が、皮膚の内まで透きとおっているようだ。その姿を、彼は地面に近い低さから見あげている。
 澤田は目の前の踝に触れようとした。指先が届く前に、みずからの右腕が黒く変色していることに気がついた。艶光りする皮膚の上に針のような剛毛が密生し、爪はするどい鈎型に曲がっていた。その手で自分の首から上をさぐってみた。鉄面を被ったように硬く顎が張りだしていた。
 自分は虫になったのだ、澤田は素直にそう解釈した。と同時に、奥底まで虫の本能を受け入れた。虫になって麗子の身体を嗅ぐと、甘い水の匂いがした。喉の渇きにうながされるがまま、彼は、ゾウムシのような長吻を踵にさしこんだ。そして、彼女の体内をめぐる体液を吸いはじめた。
 次第に透明度を失いながら麗子の花はしぼんでいった。白から紫に、紫から茶に肌の色が濁り、膝からくずおれて地に倒れた。衝撃で頭部はつぶれ、脳漿が花粉のようにあたりに散った。
 澤田はひとに還った。目の前に、ひからびたミミズのような愛人の骸が横たわっていた。彼は吐き気をこらえきれず、腹を押さえてうずくまった。そして多量の水を吐いた。
――この身体が黒くしなびてしまえば、わたしをつまらない女だと思うはずよ――麗子の自嘲を思い出した。
 その言葉通りだったのか……いや、ちがう。ここにあるのは単なるまぼろしだ。ほんとうのあいつは、おれが与えたあの部屋で、生身の裸身をかがやかせているはずだ。
 平手で頬を打ち、澤田は夢想の世界から逃れた。姿見に映る自分の姿をたしかめて、彼は長く安堵の息をついた。

 三日後、細目の詰めも済んで、契約書面一式を先方に手渡したあと、澤田は飛行機で福岡からもどった。
 悪い予感にせかされて、彼は空港から麗子の部屋に直行した。例の夜をさかいに、彼女の携帯電話が通じなくなっていたからだ。
 案の定、室内に麗子の姿はなかった。リビングを片づけた様子も見受けられず、かといって普段以上に荒れた様子もない。テーブルの上には、わずかに水が入ったコップと、封を切った頭痛薬の函が置いてあるだけで、書置きめいたものも見当たらなかった。一時間ほど待ってから「電話を待つ」のメモを残して彼は自宅に帰った。
 その後も愛人からの連絡は途絶えたままだった。毎日、帰宅途中に部屋をたずねる一方、数少ない彼女の知人にそれとなく心あたりを訊いてはみたが、手がかりを得られぬまま日は過ぎた。何かの事件に巻きこまれたのか、または自分の意思で部屋を出たのか、どちらにしても無力な彼女のことだ、良い方に事態がころぶはずがない。悪い想像は膨らみつづけた。
 そこへ追い討ちをかけるよう、福岡ですすめた商談も、予期しなかった暗礁に乗りあげた。納期直前になって、資材調達の目処が立たないという一報が入ったのち、先方から連絡が途絶えてしまったのだ。
 急いで裏をさぐってみると、別会社でかなり背伸びした商いをつづけており、闇金融の餌食となってる実態が浮かびあがった。長年世話になった人の口ききだからと、信用調査を省いたことが災いした。もはや、材料分として仮払いした金を回収するのは不可能だった。これまでの苦労は水泡に帰した。

 公私両面の心労で澤田は疲れきっていた。深夜、彼はまた麗子の部屋をおとずれ、板張りの床に腰を降ろした。そこでぼんやり煙草をふかすうち、意識はおのずとふたりが出逢った頃に遡った。

 そこは知人の邸で催された花見の席だった。男女八人、ちらほらと桜の花びらが散りおちる庭にテーブルを置いて会食をした。夫婦者三組に、澤田と、その隣に座った若い未婚の女性、彼女はこの家の奥さんの幼馴染だと紹介された。
 独身のふたりに対して、既婚組は妙によそよそしい態度をとった。不自然な空気を察した澤田は、隣の女性に参会の経緯をたずねてみた。彼女は、ただ「ウチで食事を」と誘われた、他に客があるとは聞かされていなかった、と答えた。
 この会が、ふたりの縁結びのため催されたことはまちがいなかった。
 店のオープンをひかえて気が張りつめていた頃だ、何不自由ない有閑夫人のおせっかいが、事業専心のため独身主義を貫こうとする澤田の癪にさわった。
彼はあえて不快感を態度で示した。食前酒のグラスを空け、しばらく料理に箸をつける振りをしただけで、「申し訳ない。先約を思い出したからご無礼する」とぶっきらぼうに言って立ちあがった。
「あら、もう帰っちゃうの」当の夫人は、きょとんとした表情をみせた。
「残念だが、商売がらみの用件で放っておけない」
「あら、困ったわねえ。……麗子、帰りの足はどうするの」彼女は麗子の顔をのぞきこんだ。「あなた、東屋敷町でしょ。澤田さんも同じ方向でちょうどいいと思ったのに。ここは駅から遠く、バス路線からはずれてるわよ。帰りはタクシーを呼ぶつもり?」
「ええ、そうします」
「それはお気の毒だ。僕がタクシー代を出そう」という澤田の申し出をさえぎり、夫人は麗子に指図した。「夫婦者ばかりの席に独身女性ひとりのこす方がお気の毒よ。いいから、送ってもらいなさい。あなたと澤田さんのお料理は折に詰めてあげる」
 
 けっきょく、世話焼きどもの計略に嵌められたかたちとなった。澤田はそれが悔しくてならなかった。自分たちがいなくなったあと交わされる淫靡な冗談まじりの会話が、車の中まで聞こえてくるような気がした。彼はハンドルを操りながら横目で麗子の顔かたちをうかがい、彼らに一矢むくいる手だてを考えた。
――道中、この女を放り出してやろうか。……いや待てよ。この白くきめ細かそうな肌を手つかずのまま棄てるのももったいない。いまどきの娘にしては控えめななりをしているし、顔立ちだっていかにも従順そうだ。味見をして、自分の性欲処理にふさわしい身体の持ち主だったなら、しばらくその辺のマンションで囲ってみよう。もちろん入籍などゆるすものか。飼いごろしも同然の扱いで、こんなはずじゃなかったとやつらを嘆かせてやる――そんな風に肚を決め、彼は麗子に話しかけた。
「すいません。僕のせいでお花見も中途半端に終わってしまいましたね。」
「いえ、わたしこそ無理を言ったみたいで」と、女は恐縮の面持ちで応えた。
「穴埋めにはならないでしょうが、このままドライブにおつきあい願えたら」
「えっ、先約がおありでは」
「あの場をのがれるためのでまかせですよ。他人に仕組まれた出逢いなどまっぴらごめんだ。とはいえ正直なところ、あなたに惹かれる気持ちは打ち消せない。できれば今日かぎりの縁にしたくはありません。彼らに内緒で会っていただけたら」
 麗子は黙って目を伏せた。ほんのり赤らむ頬の色を、澤田は承諾の意志ととった。車は海岸道路をしめす案内標識にしたがった。
 麗子はすんなりと彼に身をまかせた。おどろいたことに彼女は処女だった。文字通り、真っ白な身も心も手に入れたと、澤田は歓喜をこめてその肌に口づけた。女は声も立てず破瓜の痛みに耐えた。
 以来、性の悦びを深めるごとに麗子の肌は透明感を増していった。澤田への依存が強まるほど彼女の個が滅していくかのように。

 澤田はあらためて室内のしつらいを見まわした。人形、花瓶といった装飾のたぐいはなく、独り暮らしに不釣合いな大型家具が適当に配置されていた。ダブル・ベッドにガラス天板のローテーブル、三枚扉の衣装ダンスは、いずれも澤田が店の展示品からゆずったものだ。台所の調理器具や食器もまたしかり。もっとも自炊などするはずもない麗子のこと、皮肉な見方をすれば、輸入物の鍋やフライパンのモダンデザインが、素っ気ない部屋のアクセサリーともとれる。自分の色かたちというものを、いっさい持たない女だ、そう心でつぶやいて澤田は腰をあげた。
 靴を履き、玄関戸のノブに手をかけた。そのとき、携帯電話に着信があった。画面を確かめると麗子の名前が表示されていた。通話ボタンを押して、彼は「麗子か?」と話しかけた。
「いいえ、ちがいます」彼女より低い女の声がそれに応えた。
「だれだ。どうして彼女の携帯を持っている」
「麗子の姉で潤子と申します。事情あって、妹の代わりに連絡させていただきました」
 一呼吸おいてから、澤田はつとめて冷静な口調で問い直した。「妹さんに何があったんです」
「電話では申しあげられません。ご自身の目でたしかめていただきたいのです」
「どこに行けば会えるんですか」
「N医大病院西病棟の三階に」
 病院にいると聞き、澤田は自分を抑えることができなくなった。
「彼女は病気なんですね。電話でだめなら、いまからでもかまいませんか」
「ええ、夜間受付から入れます。ナースステーションで、麗子の義理の兄、わたしの夫の原田ということで面会許可をとってください。当直の看護婦さんには話をしておきます」
 
 
 脳内科の表示がエレベーターホールの壁にあった。消灯後の廊下をすすみ、麗子の姉に言われた通り、ナースステーションの窓口で原田の姓を名乗った。
「312号室、吉川麗子さんのお義兄さんですね。念のため、こちらにお名前をお願いします」と言って、看護婦は面会者の記名帳を指し示した。
 受付をすませ、部屋番号をたしかめつつ廊下奥まで歩いていった。麗子の病室は、東の突き当たりにあり、面会謝絶の札が掲げてあった。しばらくノックをためらっていると、彼の来訪を見透かしたように扉があいた。隙間から顔を出し、「澤田さんですか」とたずねた女は、麗子とよく似たおとなしい面立ちをしていた。
「はい」
「詰め所からインターホンで連絡がありました。どうぞお入りください」
 病室内は中途半端に奥ゆきがあり、入口側と、ベッドのある窓側は、青いカーテンの衝立で仕切られていた。
「個室が足りず、二人部屋を転用したそうです。妙に広すぎて、かえって夜は気がめいってしまいます」潤子はそう話しながら、澤田を衝立の奥にみちびいた。彼らは病人の枕元に立った。
「三日前からこうして眠ったきり。とぎれとぎれに聞こえていた寝言も、いまはまったく……」
 一見おだやかな麗子の寝顔に、澤田はとまどいを禁じえなかった。若干の疑念をこめて、彼は「病名は?」と潤子に訊いた。
「まだ判っていません。お医者様の説明では、脳が覚醒をこばんでいる状態だそうです」
「妹さんから不調をうったえてきたんですか」
「ちがいます。本当に突然のことで、わたしが部屋をのぞいた時には、床に倒れて動けなくなっていました」と答えて潤子は顔をそむけた。自分のいない時を見はからい、彼女は妹に会いにきていたのだろう、澤田はそう勘ぐった。
「おたがい何の心当たりもないのはつらいですね。せめて発症までの経緯が判れば、病名を推定できるかもしれないのに」
「最初はかすかに意識があったんです。ここに運んでから二三日の間は、言葉を交わすこともできました」 
「何と言っていましたか。さしつかえなければ教えてください」
「この子は、自分を捨てたがっている様子でした。名前で呼びかけるたび、わたしはまだ麗子なのね、と言って、涙ぐんでいました。さらにその涙の訳をたずねると、わたしがわたしでなくなればあのひとが喜ぶのに、と悔しそうにつぶやくんです」
「あのひと?」
「ええ、澤田さんを指していると思います」声こそ小さいが、潤子の返事は断定の調子をふくんでいた。
「そうですか、わたしのために……」
「いえ、本当に思いあたる節はほかにあるんです。立ちばなしもなんですから、どうぞ」と潤子は丸椅子をすすめた。腰掛けながら澤田は次の問いを発した。
「わたしの知らない事情ですか」
「ええ、この子の記憶から表立っては消えた出来事ですから。けれど、心の襞にはしっかりと刻まれていると思います。わたしは、それが病の根源だと信じているんです」
「もしよければ、その出来事を聞かせてください」
 しばらく考える素振りをみせてから、潤子は口をひらいた。
「この子が四つ、私が七つの時のことです。高速道路での玉突き事故に巻き込まれ、両親ともに亡くなりました。前の車が過積載の大型トレーラーで、荷崩れした鋼材が、父の運転するセダンのフロントガラスを突きやぶったんです。救助隊が到着し、車内からふたりを引き出したとき、ふたりの顔はひどくつぶれていたと聞いています」
「……」
「検死が済んで遺体は家に帰ったのですが、わたしたちは柩の中をのぞくことを禁じられました。周りの大人にすれば当然の配慮ですね。無理やり縫合された顔は、とても見られたものではなかったはず。でも麗子は見てしまったんです、通夜の日、みんなが目を離したわずかな隙に」
「それは、相当なショックを受けたでしょう」
「たぶん目鼻をのぞいて白い包帯に包まれていたかも。でも、それがかえって恐ろしかったのでしょう。葬儀中も叔母が奥の部屋でなだめていましたが、妹の気持ちは鎮まりません。顔がない、顔がない、と怯えて泣きじゃくりました。その後も、泣き疲れて眠らないかぎり、同じ言葉をくり返し叫んでいました」
 妹の寝顔に目線を据え、潤子は語りつづけた。
「ようやく落ち着いたのは、初七日が済んで家の中が静かになった頃でした。泣かなくなった代わりに、この子はすっかり自分というものを失くしてしまいました。名前を呼んでも返事はなく、ただ畳の上を見つめるだけ。ふたり別れわかれとなって父方母方の実家に引き取られるというのに、追いすがるわたしには目もくれず、祖父たちにうながされるがまま迎えの車に乗り込んでいきました」
「その後もご姉妹のお付き合いはあったんですか」
「父母の法要が唯一、顔を合わせる機会でした。ふたりで会うようになったのは、麗子が働きだしてからのこと、それもわたしからの一方的なおしかけでした。はじめ人見知りされたけど、この頃やっと心をひらいてくれようになって」と言って、潤子は弱々しい笑みを浮かべた。「こんな子だから、お勤めもうまくいかなかったんです。わたしもできるかぎりの世話をしてきましたが、もう限界というところで澤田さんに見初めていただき、ありがたいことだと思っていました」
「それなのに、わたしは……」
「いいえ、澤田さんは麗子の希いをかなえてくださったと思います」
 澤田はおどろきの表情で潤子の微笑と向き合った。
「もとより麗子は、この世界にいられない子でした。父母の、顔のない死に様を覗いたときから、すでに人として生きる理由を見失っていたのです。本人だってうすうすそれに感づいていた、でも自分で自分を消し去る勇気がないから、無の境へと導いてくれる誰かをもとめていた、その誰かが澤田さんだったのでしょう。日ごと意識が遠のくにつれ、妹の表情は、聖女のようになごんでいきました。ついに自分の名前も思い出せなくなった時、これでやっと楽になれる、これでやっとあのひとのものになれる、と安堵の息をついて、いまの深い眠りにつきました」 
 潤子はふたたび妹の寝顔に目線をおいた。澤田も麗子の方に向き直った。
「夜風にあたってきてもいいですか」
 潤子が立ち上がった。気を利かせたつもりなのか、あるいは懺悔の機会を与えようとしているのか、どちらにしても、澤田にとって感謝すべき申し出にはちがいなかった。
「どうぞ、ゆっくりしてきてください」と応える彼に頭をさげ、潤子は病室を出ていった。
 
 シーツの下に右腕をすべりこませ、澤田は麗子の右手をとった。
 しんとしたしじまの中でほの白い寝顔をのぞいていると、自分がここにいるという事実すら、彼女の内側にしまわれた記憶の一片のような気がしてくる。
「うれしいよ」澤田は眠れる愛人の耳元でささやいた。麗子が麗子でなくなり、純粋にきれいな花となった。そうなれば、自分のすべてを澤田にあずけきることができる、自分をおびやかす幻影の正体からも逃れられる、と彼女は信じきったのだ。そしてのぞみどおりの結末にいたった。
 前髪を指で梳き、なだらかな額に頬を寄せた。ここはあたたかく湿った窪みの底だ、と彼は想った。せっかくあの白い植物になれたのに、いまだにこめかみで打つ脈が気の毒で、か細い茎に手を添えた。
 足音が近づいてくる。巡回の看護婦だろうか、あるいは潤子が引き返してきたのかもしれない。どちらに見られたってかまわない、このままふたり睦み合おう。他人の眼にどう映ろうと、麗子も、自分も、もはや人たる在り方を放棄したのだから。 
 足音が部屋の前で停まった。流れこむ廊下の灯が、だれかの影を衝立に映しだした。しばしためらう気配があったのち、おもむろにドアは閉じた。

                               了

                                      



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